ジョブハンティング! 弁護士、派遣、社畜、銀座ホステス、いろいろやってみた。

元派遣、氷河期世代かつ団塊ジュニアの弁護士が外資系や大中小企業など40社以上で働いた経験をもとに、氷河期世代を取り巻く諸問題、40代派遣・フリーターから正社員へのステップアップのコツ、日々思ったことなどを綴っていきます。

人と違うということ、書くということ - はてなスターの設定外しました

こんにちは。ヴィヴィアンです。

前回は↓日本人の幸福観について書きました。

vivien-moriya.hatenablog.com

実は、最近、はてなスターの設定を外しました。

私がブログを始めた当初からスターをつけていただいていた方もいて、応援してくれているのかなぁとありがたく思っていたのですが、人によってはスターの数で「評価」する人もいるんですよね。(もちろん、私はコメント欄をもうけていませんので、感想の代わりにスターをつけてくれる方もいたと思います。)ですが、私は評価されるために書いているわけではないですし、スターの数を人と競うつもりもないので、スターの設定を外したわけです。

 

すでに書いて言いますが、

私は氷河期世代で、フリーターを長くやっていましたので、色々な人と出会いました。同じ氷河期世代で、世の中を恨んで腐っちゃってる人も少なからずいました。とても有能な人なのに、フリーターなんてもったいない!と思う人もいました。そういう人たちに自ら這い上がるヒントをシェアできたらいいな思ったのがブログを始めたきっかけの一つです。

 

ただ、手段を問わず、「意見や考えを述べること」はとても大事なことだと思っているのです。

 

私は、生き物はみな人と違っていて当たり前だと思っています。その違いが個性であり、これが人の真価だと思っています。その違いというのは、外見的なものもあるでしょうし、体質もあるでしょうが、一番大事なのは物の見方、考え方、感じ方だと思っています。そして、違いこそがその人を特徴づけるその人の核心的部分だと思っています。

 

私は人はみな違うことを前提に考えているので、このブログも人から支持されたり共感を得ることを第一の目的とはしていません。自分が周りと違う考えであると感じるときこそ、自分の考えを発信する必要があると思っています。もっとも、ひろゆきやホリエモン、最近流行っている成田なんとかみたいに、あえて「違うこと」、「奇抜なこと」を言うのは、ダサいと思っています。

 

日本人は人と違うことを恐れるとか、人と違うことを周囲に知られるのを恐れる、などと言われています。

私は海外に精通しているわけではないですが、日本人でなくても、そういった傾向は多少はあると思いますが、たしかに、日本人はその傾向が強いということはいえると思います。私が大人になったころから「個性」が大事と言われ出したように記憶していますが、いまだに、人と違っていることを「悪」と考える人が多数を占めています。むしろ、今の若い人の方が周囲との違いを恐れる人が増えていると見る向きもありますよね。

 

私は、物心ついたころから、「いや私はこう思う」「これが私だ」という意識が強かったので、周囲と対立することが非常に多かったのですね。やみくもに、目立つ発言をするのではなくて、普段は黙って観察していますが、これはまずいだろ、と思ったときや、明らかに間違っていると思うときなんかは、意見することにしています。何度も人と対立したり喧嘩してきました。意見する相手は、子供のころは親は当然として学校の先生、大人になってからはめちゃくちゃ偉い人なんかもいました。ですから、周囲は、えぇぇぇぇ~!!!なんなんだ!コイツは!生意気言いやがって!といった反応が常で、袋叩きに遭うこともあります。こんな偉い人に向かって、コイツ頭おかしんじゃね?といった感じで、本当に冷たーい目でじーっと私の顔を凝視する人もいます。その後、無視されたり、冷遇されたりすることもあるわけですが、それは仕方がないと思っています。言わないほうが後悔するし、言ってみて、反感買って嫌われて冷たい目で見られるけれども、すっきりして生きていく、もうこういう生き方そのものが私なんだろうなと思います。私にはこういう生き方しかできないし、できないのなら死んだほうがましだと思って生きています。

 

言われた方は当然不快に思うでしょうし、場合によっては深く傷つくかもしれません。私を嫌いになるかもしれないし(すでに嫌われているかも)、一生恨むかもしれません。陰でボロクソ言われていたのも知っています。組織内であれば、地位を失ったり、職を失って食べていくのにも困ることもあるかもしれません。でも、仕方がないと思っています。言わないほうが死ぬほど後悔するし、そもそも、自分の考えを言ったことによって、たった1人の意見によって、地位や職を失うとか、何かを失ったとしても、もうどうでもよくないですか?なんかすごくくだらないなと思うのです。そんな世界に、そんな人たちに付き合う時間は無駄でしかないと思うのですね。むしろ、言ってみて、周りの反応をみることで、周囲の人間の真価が分かるわけです。で、結局、こんなやつらだったのね。早く分かってよかった~!言ってよかったー!!ってなるんですよね。(もっとも、好意的な反応がある場合もあって、ちょっとびっくりすることもあります。)

 

いやでも、食べていくために、周りのご機嫌をうかがって生きていかねばならないと考える人が多いと思うのですが、私は、そんなにしてまで、生きていく必要はないと思っているんですよね。もし自分がこの世界で生きていけなくなったのならば、それはそれで仕方がないと思っているんですよね。この世界って、この世界で生きていくことって、そんなに魅力的ですか?明らかに間違っていると思うのに何も言わない、言えないなんて、私にはそういう生き方もそういう世の中も全く無価値なものに思えるのですね。言えない自分はもはや、自分ではないと思っています。ただの、呼吸をして生命を維持しているだけのヒトという感じがします。もう、家畜のような感じでしょうか。

間としてはほとんど死んでいるようなものです。生きていないのと同じです。

そして、言えない世の中は、もはや、壊れているように感じます。

 

皆、オギャアと生まれてから、異なる人生を歩んでいきます。全く同じ人生などないですし、当然、物の見方、感じ方は異なります。何を思うか何を感じるかは人それぞれ、個人の自由です。例えば、LGBTの人たちを気持ち悪いと思う人がいるのは当たり前のことですし、女性を産む機械としか考えていない人がいてもいいじゃないと思っています。(ただ、置かれている立場によって不適切な発言というのはありえますし、差別的な扱いをするのはまた別の話ですよね)

 

多くの人は、私が周りに与えるインパクトを想定せずに言っている、書いていると勘違いしているようなのですが、つまり、周りが眉を顰めるようなことを言っていることに気付いていないと勘違いしているのですけれど、そんなわけないじゃん。同じ考えなら言うのは時間の無駄ですし、違うと思ったから言っているのですよ、または、誰も言わないから言うのですよ。

 

意見を言うこと自体を「感情的になっている」とか「周りの空気を読んでいない」、「和を乱している」、なんていって批判する人が多いですけれど、全て分かったうえでの発言だと言うと、彼らは驚くんですよね。つまり、彼らは、人と違うことを、それを認識しながら発言することはありえない、と思っているわけですね。感情的になっているから、空気を読めていないから、だからあやまって人と違うことを言ってしまったのだ、失言したのだ、バカに違いない、と決めつけているんです。

 

でもそれでも、意見を言う、考えを述べる、というのは手段を問わず、私にとっては不可欠なものだと思っています。こういった行為そのものに意味があると思っています。ですから、評価は必要ないと思っています。