ジョブハンティング! 弁護士、派遣、社畜、銀座ホステス、いろいろやってみた。

元派遣、氷河期世代かつ団塊ジュニアの弁護士が外資系や大中小企業など40社以上で働いた経験をもとに、氷河期世代を取り巻く諸問題、40代派遣・フリーターから正社員へのステップアップのコツ、日々思ったことなどを綴っていきます。

日本人はどこに向かっているのか? - 日本人にとって幸福とは

こんにちは。ヴィヴィアンです。

前回↓は実力主義に転換するにはどうすればよいのか、について書きました。

vivien-moriya.hatenablog.com

今回は、日本人の幸福論、幸福観についてです。

 

最近、日本は賃金が低いとか、子育てが大変だとか、物価が上がってこんな給料じゃ生活できないとか、国民から不満の声が上がっています。さらに、結婚したいのにできないとか子供が欲しいのにできないとか、毒親に育てられたとか、私ってなんて不幸なの!と思っている悲劇のヒロインちゃんが増殖しているように感じます。なんだか日本全体に不幸感が漂っているんですよね。日本人は幸福度が低いとも言われています。

 

最近たまたま海外の人たちが語るそれぞれの幸福論を聞く機会があり、やっぱり日本人は独特だよなぁと改めて思ったのです。

そんなわけで、今回は日本人の幸福観についてです。

目次:

日本人の特殊な幸福観

自分は不幸だ不幸だという人に理由を聞くと、子育てに金がかかるからとか、ぜいたくできないからとか、お金持ちじゃないからとか、子供が一流企業勤めじゃないからとか、子供の成績が悪いからとか、旦那が育児を手伝わないからとか、結婚したいのにできないからとか、子供が欲しいのにできないからとか、たいていそんな感じですよね。

 

逆になぜ幸福なのか問われると、何不自由ない生活を送っているからとか、旦那の稼ぎが良いからとか、子供がエリートだからとか、孫が生まれたからとか、出世できたからとか。

 

幸福であるかどうかは主観の話で自分の内面の問題、つまり、自分のことを自分の人生を自分でどう評価するのか、という話になるはずですが、日本人は、物質的な充足度やステイタスを他者との比較において自分が上か下かでジャッジする傾向があるように見えます。非常に特殊な幸福観だと思います。

 

そして、ここで注目すべきは、日本人の多くは「他者との比較において」ジャッジするということですね。

相対評価ですから、必ず幸福でない人が一定数存在することになるわけです。最低でも標準的な日本人的生き方を実現していない限り、又は周りから羨ましがられるような何かを手にしていない限り、不幸とジャッジされることになります。幸せであるとジャッジするために、自分とその家族が周りの他者より一歩二歩リードしなければと必死になっているように見えます。

よく、ぜいたくできない、幸せでないのは国が悪いから、政治が悪いからと言う人がいます。ですけれど、政治が良くなってもどんなに日本が豊かになっても、全体が底上げするだけですから、自分が他者よりも大きくリードするわけではないしマウント取れるわけではない以上、幸福になることはないのです。

 

そもそも、このような日本人の幸福観はどこから来ているのでしょうか。

 

多くの日本人は信仰をもたないですから、自分と向き合う習慣がありません。自分と向き合うというのは、もう一人のブレない自分だったり神の目を通して自分を検証するということだと思います。自分との対話、神との対話によって自分という人間が見えてきたり自分が何を欲しているのかが見えてきたりするわけです。

(ちょっと補足します。ここでは、信仰をもつ、というのは単に宗教に入っている状態を言っているのではないのですね。例えば、代々、信仰しているものがあって、もうそれが生活の一部、自分の一部になっているとか、自分の思考に組み込まれているとか、そんなのでもよいと思います。悩みがあって、楽になりたくて答えが欲しくて入信したような場合とは違いますし、いわゆるカルト教団の二世とも違います)

 

信仰があると必然的に神の目を通して自分を見なければならなくなります。が、信仰を持たない人にとっては自分と向き合うということが非常に難しいのではないかと思うんですね。結果、日本人は意識が自分の内面ではなく自分の外に向かっていくのではないでしょうか。(単に「悩む」というレベルで内面に向かうことはあっても、客観的な目をもって自己を見つめるというのは慣れていないように見えます。)そして、他者を必要以上に意識しすぎるあまり他者との関係において自分を評価したり、物質的なものに関心がいくのではないかということです。他人との比較、つまり他人よりも裕福であるとか、一流大学を出ているとか、一流企業に勤めているとか、収入が多いとか、美人とかイケメンとか、配偶者の学歴・職業とか、子供の学歴とか成績とか、そういったもので自分が幸福であるかを確認するようになるのではないかと思うのです。

自分に問いかけることができないのですね。自分にとって何が幸福なのかを。

 

人の意識の中に神がいるかいないかは非常に大きいように思うのですね。人が自律的に生きていくうえで目に見えない絶対的な存在は不可欠だと思います。神といっても、先祖代々伝わる教えとかご先祖様の存在そのものでも良いかもしれません。苦労して築き上げた絶対的に信頼できる自分でもよいかもしれません。決して揺らぐことのないブレない軸というか、規範となるものですね。

なにもないところで自分と向き合うのはやはり難しいと思います。人間は弱いですから。自分と向き合うというのは、自分の頭で考えないといけないし、エネルギーも使います。知性も必要です。思考停止の頭では難しいでしょう。

インターネットの普及による幸福観の変化

最近はインターネットで他者の生活を覗き見ることができるようになりました。芸能人はもとより、全くの一般人も私生活を公開しています。自分に近い他者の「幸福の形」が分かりやすく提示されているのですね。うまくやれば手が届きそうなんですよね。これは他者と比べがちな日本人の価値観や幸福観に多大な影響を及ぼしていると思います。

 

彼らの生活に近づきたいと努力するのならまだよいかもしれませんが、そうではないんですよね。ここで日本人の悪しき平等主義が顔を出します。なんで、私はぜいたくできないの?何で私はこんなに不幸なの!不公平じゃん!平等にすべきだ!国はもっと賃金を上げるようにすべきだ!とか。

 

インターネットの普及で他人の生活を覗き見ることができるようになり、上ばかり見てさらにもっともっとと分相応の生活に満足できなくなってしまったのではないでしょうか。他者の提示する「幸福の形」を自分の人生に当てはめて足りないものを探し出そうと必死なのです。他の人たちはみんな持っているのになぜ自分は持っていないの?オカシイじゃないか!●●がない自分はなんて不幸なんだろう!と、不幸の種を探しているんですよね。

 

他人の生活の覗き見が自ら上を目指す起爆剤になればよいのですが、他者の「幸福の形」にあてはめることに終始したり、幸福は他者または国から与えらえるものと思っているので幸福を感じることが難しくなっているように思います。自分の「幸福の形」は自分しか知らないはずです。

 

よく、結婚したいのにできないから不幸だとか、年収が低いから不幸だとか、子供が欲しいのにできないから不幸だとかいって悲劇のヒロインになっている人がいますけど、私にはまったく分かりませんね。欲しいモノが手に入らない。多くの人が持っているのに自分だけ持っていない。ただそれだけのことです。人生ってそんなもんでしょ。

 

子供がいないからといってなぜ不幸なのでしょうか?生まれてから死ぬまで不幸なんでしょうか?みんな子供いるから?いや、今は子供産まない人多いですよね。養子縁組もあるし、里親制度もあるから子供を育てることはできます。なぜ血がつながった子供でなければならないのでしょうか?

 

結局、信仰を持たない日本人の場合、冷静に自分と向き合える強さや知性のある人でないと、幸福と感じるだけの感性を磨くことが難しいのだと思うんですね。つまり、弱い人やバカほど自分を不幸だと思っている割合が高いということになりそうですが、どうでしょうか。